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デミアン・チャゼル「セッション」

これは狂気と執着の物語だ。

ニーマンとフレッチャーが素晴らしい演奏者かと言われたら、決してそうとは言えないだろう。ニーマンは最も全体を見なければいけないパートであるのにも関わらず、自身の技術ばかりを追い求め続ける。フレッチャーは生徒を育て上げるのが役目であるのに、演奏ができない生徒の精神を踏みにじり非情に切り捨てる。そればかりか、自分の復讐の為だけにニーマンが演奏を本番で台無しにするように仕向けるのだ。彼らの音楽への態度は、真摯というよりも"独りよがり"である。

だが"独りよがり"というのは音楽や芸術のひとつの側面だと思う。劇中でも言及されていたように、スポーツなどは厳然とした勝敗の下で優劣が決まるが、音楽や芸術に限ってはそうではない。とてつもなくあやふやな主観的な感想で優劣が決められる。生きている時に不遇の扱いを受けたアーティストが死後評価される話はよくあることだ。そんな中、表現者達はなにを信じていけばいいのか。それは"自己満足"でしかないだろう。自己の理想を追い求め、異様なまでの執着と滲むような努力を芸術に昇華する。そうした芸術の狂気じみた側面を、極端ながらもこの作品は描いている。

最初は夢を持つ普通の若者だったニーマンが、徐々に内向きになっていく。中盤になるにつれて映画館やピザ屋など外の世界を映すシーンはなくなり、ニーマンがドラムを叩くシーン、ひいてはニーマンとフレッチャーとドラムだけの世界がこの映画のほとんどを占めていくのだ。そして彼らの世界はどんどん狭く、深く、歪なものとなっていく。練習を通して、二人の間には師弟愛とは形容し難いような、強烈な憎しみと仲間意識が生まれたように感じる。ニーマンは横暴で自分を認めてくれないフレッチャーを憎み、フレッチャーもまた自分の思い通りの音を出さず、自分より若くて可能性のあるニーマンを憎んでいた。それでもなお彼らを繋げていたのは、理想を追い求め続ける欲求であるだろう。常人には理解できない次元で音楽に執着し続けた彼らの間には、戦友であり唯一の理解者のような関係が芽生えていたのではないか。

そしてこの映画の最大の見せ場であり、最も素晴らしいシーンはやはりドラムセッションのシーンであるだろう。この10分間に感情や理屈を越えた美しさが込められており、今までの内容すべてがこのシーンのために存在していたのだ、という気分にさせられる。

フレッチャーは、自分のパワハラを学校に密告したのがニーマンということに気づき、復讐のために彼が重要な大会で失敗するように仕向ける。その罠に掛かったニーマンは動揺して舞台を去る。そこで彼を待っていたのが彼の父親だ。

身を滅ぼす一番危険な言葉は「上出来だ」だ。

本作において、フレッチャーと対局に位置しているのがニーマンの父親だろう。彼はどんなことがあってもニーマンを受け入れ、抱きしめる。幼少期の頃のニーマンの動画からもわかるように、彼はフレッチャーにとって一番危険な言葉をニーマンにかけ続ける。それはニーマンの才能だけではなく、彼自体を愛しているからだ。そして彼が舞台上で恥をかいたあとでも、父親は「もう帰ろう」と優しく声を掛ける。それを聞いたニーマンは自身の才能と決着をつけることを決意するのだ。

再び舞台に戻ったニーマンはフレッチャーの言葉を遮り、鬼気迫る表情でひたすらドラムを叩き続ける。そのとき彼は戸惑う奏者やフレッチャーさえも巻き込んでひとつの協奏曲を作り上げる。苛立ちを見せていたはずのフレッチャーさえも満足げな笑みを見せるほどの素晴らしい演奏。素晴らしいドラム。そのときニーマンは勝ったのだ。ニーマンの努力、ニーマンのドラムで、あの虐げていた忌々しいフレッチャーに。それはどこまでも二人だけの世界であり、そこに他者が介在しないのが悲しい。

どんな状況にあっても音楽の完成度を追い求めてしまう音楽家の業と、あまりにも閉鎖的で理不尽な音楽というものをこの映画は描いている。テーマも内容も重く暗い作品だが、監督の音楽への溢れんばかりの愛がそれを緩和している。

田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」

この本は"男と女"を八編の短編で描く恋愛小説だ。彼らの関係からは恋愛というより情愛という言葉が似合うような生々しさを感じる。私は田辺聖子があまり得意ではない。彼女の作品では常に、鼻にツンとつくような派手な香水の香りが充満しているような気がして怖気づいてしまう。なんだかいけないものを見てるようで、そしてその濃厚な雰囲気に気を取られているうちに自分まで取り込まれてしまいそうな魔力があるのだ。田辺聖子を楽しむという行為はきっと、円熟した大人にしかできないものなのだろう。

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

そんな大人の色香を漂わせる本書のなかで、ひときわ異彩を放っている話がある。それは、表題作でもある「ジョゼと虎と魚たち」だ。この話は足が動かない女の子・ジョゼと、普通の大学生の恒夫の物語だ。25ページしかない中で、2人の感情の機微を繊細に捉え、完成されたひとつの物語として昇華している。一歩間違えれば、お涙頂戴感や押し付けがましさを感じさせて、凡作になってしまう難しいテーマを見事に書ききる田辺聖子の筆力には感嘆せざるを得ない。

ジョゼのいうことは嘘というより願望で、夢で、それは現実とは別の次元で、厳然とジョゼには存在しているのだ。

ジョゼは常に世間から遮絶されて生きてきた。「ややこしい」という理由で父親とその女に捨てられ、祖母は彼女の存在を人から隠そうと外出を許してくれない。そんな彼女が外の世界を知るための手段は活字とテレビしかないのだ。それゆえに父との数少ない思い出である野球観戦のことを嬉々として語るとき、テレビで見た情景を自分の体験だと思い込んでしまっている。彼女にとって現実の出来事と空想の出来事はごっちゃになって、同じものとして存在しているのだ。そんな彼女の記憶の危うさが、夢か現実か分からなくなってしまうような詩的な世界を形づくっている。

そんな浮世離れした彼女の前に現れたのが、普通の大学生である恒夫だ。彼は"普通"ゆえに、ジョゼを障害者ではなく、ひとりの人間、ひとりの女の子として扱い、そのように接する。だから軽口も叩くし、とりとめのない話もする。恋だってする。それは本やテレビという作られた世界でしか、"普通"を味わうことができなかったジョゼにとってかけがえのないものだったのだ。恒夫が障害者に精通しているボランティア青年だったら、この物語は始まらなかっただろう。

そして彼女は恒夫を通して初めて生身で世界と触れ合う。「一番こわいものが見てみたかった」と言って虎を見たり、恒夫に連れられて水族館に行ったりもする。そうして彼女の足になり、まるで魔法のように世界を広げてくれる恒夫にジョゼが抱く感情は痛々しいほど純粋なものだ。

恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。

幸せと死というおおよそ似つかわしくないそのものをイコールで結んでしまう。そんな彼女の心情からは毅然とした強さと底知れない恐ろしさを感じる。人間の深遠を描くようなこのセリフからは田辺聖子の凄みが伝わってくるようだ。この作品はあまりにも人間の深みを描きすぎて、読む側の人生経験が問われる試金石的な作品だと思う。自分は若すぎて表面的な理解しかできなかった。時が経ったらもう一度読みたい作品。

今こそ黒猫チェルシーを聴いてほしい

火花に出ている渡辺大知、素晴らしすぎませんか。お陰で今、黒猫チェルシー熱が破茶滅茶に上がっている。渡辺大知語で形容するならば胸がピーチみたいになってしまっている。もうPEACH PUNK状態だ。そこで新アルバムの「LIFE IS A MIRACLE」を聴き込んでいるのだけどこれがまた良い。捨て曲はないし、彼らの独自性を活かしつつ様々なジャンルの音楽に挑戦している。


黒猫チェルシーで一番有名な曲はこれだと思う。10代ながら貫禄を感じさせる演奏と現代では珍しい硬派なガレージパンク。この曲のインパクトが強すぎるあまり、世間一般のイメージはここで止まってしまっている気がする。

そして今の彼らがこれだ。

別人かと思うくらい落ち着いた。ストレートなロックバラードにストレートな歌詞。時代に流されない彼らの魅力はそのままに、どこか懐かしさを感じさせるメロディを鳴らしている。シティポップが台頭している今、その懐かしさが新鮮だったりする。

ああ あなたが大好きで大好きでさよならしたんだ
ああ あなたが寂しくなったら
いつでも どこかの駅で 乗ってきてもいいからね

黒猫チェルシーの良さの一つにボーカル・渡辺大知の表現力がある。少し掠れた独特の歌声からは彼らが少年から大人に変わったことを感じさせる。そして伸びやかで力強い声の情報量の多さよ。歌詞はいささか凡庸かもしれないが、それを補って余りあるものがある。痛いほどの未練とささやかな決別、君を想う喜びと苦しみ、そんな相反する思いを表現しながらも、細やかな感情の色を変化させながら歌い切る。その声はあまりにも情動が詰まりすぎて、この人歌いながら死んじゃうんじゃないか、とさえ思わせられる。そしてその歌声にどうしようもなく圧倒されてしまうのだ。

この曲も黒猫チェルシーの良さが全面に出ている曲だ。最近知ったのだが、ナルトの主題歌にもなったらしい。こんないい曲幼い頃から聞かされるなんて児童の健全育成に良すぎる。羨ましい。

ゆっくりとした歌い出しから始まるこの曲は、情景を描きながら爆弾の導火線のように息を潜める。そしてサビに入ると感情が爆発する。

泣きたい泣きたい泣きたいくらいに
綺麗な月の下 歌を歌おう
どんなにくだらない世界だって 越えていくよ

失神しそうなくらいかっこいい。緻密なベースライン、昂るギターリフ、疾走感のあるメロディ。それら全てが爆発力を際立たせている。またクリープハイプが多用するような、普遍的な形容詞を連呼して気持ちを強調する手法もそれに拍車をかけている。彼らは成長して丸くなってしまった訳ではないのだ。がむしゃらに3分間に"かっこいい"を詰め込んでいた彼らは今、私たちが気付かないような隅々にまで計算を張り巡らせて音楽を作っている。それながらもわざとらしく退屈な音楽になってしまわず、きちんと衝動を歌いきるところに彼らの頭の良さが表れていると思う。

彼らをひとことで表わすならば「正統派」だろう。王道というのは常に馬鹿にされがちだ。ありきたりと揶揄され、個性を出す努力をしていないと言われてしまう。だが、本当に一番難しいのは王道の方だろう。あまりにライバルが多く、誤魔化しがきかない故にシビアに実力が問われてしまう。だがビートルズブルーハーツ、そんなロックスターと呼ばれる人々は得てして"王道"であるのだ。そして彼らは恥ずかしくなるくらい真正面から"ロック"に挑んでいる。そんな無謀な挑戦ができるのは、彼らの長年の努力で研ぎ澄まされた実力と才能のお陰だろう。

音楽ファンの心を掴み、一般ウケする実力がある。なおかつボーカル渡辺大知の知名度もある。俳優として出演した作品のタイアップができるというのは、普通のバンドにはできない大きな強みだ。十分すぎるほど彼らがブレイクする条件は揃っている。早くMステや紅白で私たちに本物のロックを見せてくれ、黒猫チェルシー

ヘッセ「車輪の下で」


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この痛みを誰もが一度は感じたことがあるはずだ。周りの期待に応えられない。どこか社会に馴染めない。もがいているのに思うようにいかない。なんで自分だけ。どうしてこうなってしまったんだろう。僕たちは能天気であどけない顔をしながらも、裏ではそんな絶え間ない苦しみを必死に押し込めていたはずだ。「頑張って」「信じてるよ」。そんな愛情と信頼の代名詞のような言葉を掛けられる度、優しさでコーティングされた鋭利なナイフを首に押し付けられているような息苦しさと恐怖に駆られたはずだ。でも大体の人間は多少の差はあれどそれに応え、"社会"に適合していく。違和感と不安は脚色され、素敵な思い出として、または青春にかかる一過性の流行り病として忘れ去られてしまう。だが一部の人間は期待に応えられないまま、社会から遠ざけられ、自身の無能さを責めながら生きていくのだ。この作品はそんな"社会不適合者"とされる人間を描く作品だ。

我々は常に国家と学校が、毎年出現する何人かの価値ある深遠な精神を、たたき殺し根元で折り取ろうと息を切らして努力している様子を目撃するのである。


この作品で語られているのは、過度な期待を押し付けて子供達の個性を摘み取る大人達と、多感な時期に勉強させ自由な時間を奪う教育体系への痛烈な批判だろう。この作品はヘッセの半自伝的作品であるため、主人公の情動や筆者の怒りが迫真的な筆致で描かれている。そのためページを捲る度、そして沼に足を捕らわれるかのごとくハンスがゆっくりと転落していくのを見る度、ヒリヒリとした苦しみと焦りが伝染してくる。この話は青春小説というよりホラーだ。私たちは、社会という怪物がいたいけな少年を食い尽くしてしまう様子を憮然と眺めることしかできない。

二人の早熟な少年はこの友情において、期待に満ちた恥じらいとともに、初恋のほのかな秘密のようなものを知らず知らず味わっていた。

だがハンスには不幸ばかりが訪れる訳ではない。ハンスは神学校で、反抗的な性格ながらも天才的な才能を持つ少年ハイルナーと出会う。作中でハンスと親密な友情を結ぶ彼にもまた、ヘッセの少年時代が投影されている。正反対ながらも"傷つきやすい"という点で似通った彼らは、瞬く間に惹かれ合う。それは友情というよりも、共依存いう形容詞が似合う歪な関係であるが、それでもなお彼らの間には無垢な魂が共鳴し合ったゆえの神聖さが漂っている。結局、ハイルナーは彼を置いて神学校から逃げ出してしまい、彼らの友情は刹那的なものとなってしまう。だが作中描かれる友情の煌めきは底抜けに美しく、離れ離れになった後も未来を照らしてくれるような、微かな救いとなっている。

その間に陽は高く昇り、上の堰のところでは水泡が雪のように白く光っていた。水面では暖かい空気が揺らめき、見上げればムック山の上にも手のひらくらいの大きさのまばゆい雲があった。

叙情的で美しい情景描写とハンスの戸惑いながら揺れ動く心情の描写が、この作品の残酷さに拍車をかけている。いや、情景描写というのは間違いかもしれない。ハンスがどんな絶望の淵に立っていても、自然は限りなく尊く、美しいものとして描写されている。自然はただそこに"ある"だけなのだ。だが神学校を辞めされられたハンスの目に美しい自然は写らない。以前あんなに自然を愛していた彼は悩みや苦しみに囚われ、眼前に広がる素晴らしい世界の存在にさえも気づくことができなくなる程追い詰められてしまうのだ。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

同じ青春小説として最も有名な作品はこの「ライ麦畑でつかまえて」だろう。この作品は、学校を辞めさせられた主人公ホールデンが家出をして旅をするという物語であり、「車輪の下」と「ライ麦畑でつかまえて」はどちらも、繊細な性格のため社会からドロップアウトせざるを得なかった主人公の視点を通して、"社会"や"大人"の欺瞞を描く作品だ。2人は同じ境遇、同じ年代であり、同じ感受性の豊かさを持っているが、対局な性格故に真逆の結末を迎えることになる。これらの作品を見ると、社会において自分の感情と向き合い素直に生きていくことの難しさと、間違いだと分かっていてもどこかで適応しないと生きていけないやるせなさを感じる。だがやはりこの2つの作品を比べると、「逃げる」という選択肢を選ぶことでハンスは救われたのではないかというもしもを思い描いてしまう。

物語の終盤、酔ったハンスが川に流されてしまう結末は彼が自然以外に居場所を見つけられなかったことを表している。労働者を見下すようなプライドを幼少期に植え付けられたせいで、機械工としての生活という最後の希望さえも掴めずに彼は死んでしまう。あまりにも重く救われない作品だが、それゆえに私たちの心に深く沈殿し、生きていく上での軸ともなり得る作品だと思う。世渡りが上手な"普通"の人よりも、生きていくことにどこか違和感を感じてしまう"変わった"人に強くお勧めしたい。

「火花」第2話

美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台無しにするかが重要なんや
現実を超越した圧倒的に美しい世界が現れる

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徳永と神谷が愛おしい。並んで歩くとき、いつだって神谷が徳永より一歩進んで歩いているところや、二人にしか分からない言葉で無性に可笑しくなってはしゃぐところに二人の特別な関係性が表れていて微笑ましくなる。神谷の吐く台詞が綺麗なところも好きだ。研ぎ澄まされた言葉に卓越したカリスマ性を感じてしまう。

今回のキーワードは「おやすみなさい」なのだろう。たまに思うけど「さようなら」よりも「おやすみなさい」ってパーソナルな挨拶な気がする。距離が近いというか生活的というか。だから初対面の居酒屋の店員にも神谷のときにもおやすみと返さなかった徳永が、山下にだけおやすみと言うところで妙に心が踊った。

そしてこのドラマ、ひたすら歩く。ゆっくりながら一歩ずつ夢に向かう彼らを表現するようにとにかく歩く。その度に揺れる画面が彼らの情動を表しているようでとてつもなく映画的だ。また、その時に流れる渡辺大知の弾き語りの素晴らしさといったら!やはり渡辺大知の声の表現力は偉大だ。立ち止まる人が全然いないのにアコギのストラップが外れるくらい熱唱する愚直さ。最後の百円札のさくらのシーンでの、どこか間の抜けた喋り方ながらも、愛嬌のある渡辺大知のどこにでもいそうなバンドマン感。頑張ってください、と声を掛けられた後の純朴で繊細そうな挙動。すべてが良い。夢を追う若者が沢山出てくるのにも関わらず、ひとまとめにしないで彼らの些末な違いを丁寧に描く脚本と丁寧に演じる役者に感嘆する。そして徳永と渡辺大知演じる小野寺の繋がりが心地よい。この交流はお互いのサクラを演じあうという、ある種の共犯関係と共にあり、神谷とも山下とも種類の違う特別な関係を感じさせる。

どうしても述べておきたいのが、山下の彼女役の高橋メアリージュンの可愛さだ。もう半端ないくらい可愛い。カルテットでもそうだったけど、とびきり美人なのになんだか残念なところがいい。いつもドスの効いた声を出してるイメージがあるにも関わらず、意外と声が高いのもキュート。寒色のコートの方が似合いそうなのに白のコート着てるところも好き。

最後のシーン。徳永がチャンスを掴んだ後、いつもの階段で声を掛けられるところで終わるのだが、その時徳永の背後で飛び散る火花の意味が分からなかった。モヤモヤするなあ。作品が素晴らしい分、自分の理解力が及ばないともったいないことをしてしまっている気持ちになる。次回、やっと神谷の彼女役である門脇麦が出てくるらしい。門脇麦、ウシジマくんの印象が強すぎるせいか夢を追う男を応援する彼女的なイメージがある。ホストとお笑い芸人は全然違うけど。回を追うごとに徳永が明るくなっている感じもあり次回が楽しみ。

僕らのフェイバリットバンド、グミの解散に寄せて

どうしようもないくらいグミが好きだ。心底色んな人に聴いてほしいバンドだ。なのにこんなに早く解散してしまうのが悔しい。だって「ぼくたちホモサピエンス」なんてYouTubeで1.5万再生しかされていない。もっと色んな人に届くべきだ。私よりもっと届くべき人がいるはずだ。この歌は私みたいな人間の耳垢にまみれたイヤホンで響くよりも、クラスの隅で、アパートで、通学路で、漠然と不安を抱きながら過ごす青春の中で響くべき歌なんだ。自分にはどうにもできないけれどそう思ってしまう。

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グミは2013年に結成されたインディーズバンドだ。音楽性としてはなんというか落ち着いた銀杏BOYZみたいな感じ。好きなあの子への思いとか憂鬱な毎日への鬱憤、自己嫌悪をシンプルな演奏ながらもポップなメロディに載せて歌っている。

たぶんこれが彼らの一番の代表曲だ。グミの歌詞の魅力は突出したものがあると思う。

狂った季節の訪れ まちは煌めく 僕は靴もちゃんと履かないで
財布と鍵だけはもって いつもの道を歩いて行く

歌い出しから心をつかまれる。騒々しい蝉の鳴き声、不快にさえ感じる夏の蒸し暑さ。照りつけるような日差し。いつもよりぼんやりとした風景。そんな夏にだけ感じる独特の倦怠感。そんな感覚が伝わってくるような歌詞。もう最高。グミはこの曲だけじゃなくて、12時過ぎに起きた日のあのけだるい感じを歌ってくれるのがいいんですよね。

夏が過ぎるのは速いから 一瞬の魔法みたいだね
風にゆらゆらなびく髪の シャンプーの匂いが忘れらんないよ

曲が盛り上がるにつれて夏の暑苦しさから夏の爽やかさを感じる歌詞に変わっていく。その理由は君がいるからだ。"僕"の世界では恋という魔法が風を吹かせる。そしてPVのレッドブルは、風があの子に翼をくれたことの象徴だろう。夢のような空想的な歌詞が、僕にとって君が非現実的な存在であることを表している。魔法は好きなあの子を天使に変えてしまうのだ。

極めて写実的な歌詞と幻想的な歌詞が絶妙なバランスで織り交ざって、この曲の魅力を確かなものにしている。繊細で純粋な歌詞を引き立てるいわゆる"童貞ボイス"な声もいい。カラオケで女の子にキャーキャー言われてそうな歌い方のバンドより、こういう歌い方の方が断然好きだ。

そして私の一番好きな歌はこれだ。めちゃくちゃ良い。言葉にできないくらい良い。とびっきり楽しくて、苦しくなるほど切ない。青春がどんな音を鳴らすのかは分からないけれど、この曲が鳴らしているのは青春そのものだ。ぼくたちホモサピエンスという曲名も愛おしい。本能と衝動のまま音楽にあの子への思いをぶつける彼らにふさわしいタイトルだと思う。

「僕ならすべてを解決できるのに」
なんて口が裂ければ言えちゃうくらいにして
君のことなんてなんも知らないのに まだ

どうしようもない彼氏と付き合い、手首に傷をつくる"君"が抱える問題はきっと"僕"には想像できない程のものだ。だけど、あの子を何度も何度も思っているうちに全てを知ったつもりになってしまう。僕には君の連絡先さえも分からないけれど、君の絶望と苦しみが分かるのだ。僕なら君を助けてあげられるのに。そんな思春期によくある思い上がりをこの歌は歌っている。そして"僕"は"君"のことをずっと眺めているにも関わらず、曲の最後まで"君"は"僕"を見ることはない。それでもこの歌は君のことを"まだ"なにも知らないと歌うのだ。これからあの子と"僕"が偶然同じ教室にいるだけの関係から発展することはないだろうし、心を開いてくれることもないだろう。それでもすがるようにこれからを信じる"僕"の報われなさ、分かり合えなさにどうしようもなく惹かれてしまう。

僕は恋した 君に恋した だけどあいつが僕を追い越した
負けを散々思い知らされても まだ好きです アイウォンチュー
僕は恋した 君に恋した 過去に何度も別の恋もした
だけど何度もまたトキメク僕ら ホモサピエンス

こんなに苦しい現実を歌いながらも、恋する輝かしさがサビで爆発する。負け続けながらも好きを叫ぶその姿はあまりにも青春パンク的であり、銀杏BOYZ的だ。永遠だと確信していた恋も、時が経つにつれてその恋が刹那的なものだったことを知る。そして新しい恋に出会う度、この恋こそ終わりないものだと思い込んでしまう。そんな僕らホモサピエンスのある種滑稽な様を、彼らはとてつもなく美しくて尊いものとして歌っている。もうこれは全人類に対するラブソングと言っても過言ではないと思う。

ここまで色々書いてきたけどやっぱりグミが好きだ。ちょっと不完全なところもあるけど、そこも含めてこれからどう成長していくのだろうという気持ちにさせられるバンドだった。もっと彼らの曲が聴きたかった。グミは来月に初の全国流通盤シングルを発売する。楽しみだけど怖くもある。でも本人がまた会えるってコメントしているのだからまた会えるのだろう。それまで私たちはぼんやりと日々を過ごして行くしかないのだ。

「火花」 第1話

あまりにも儚くて、美しい。これらの映像が彼らの青春をはっきりとした夢のように見せている。

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原作を読んでいないのが悔やまれるくらいの力作だ。だが、夜道のように真っ暗で、一筋の希望に照らされた彼らの未来を、共に手探りながら進んでいけるのはそれはそれで楽しいのかもしれない。たった一時間でこのドラマの虜になってしまった。


第一に俳優陣の演技が素晴らしい。林遣都の、網膜に映るものすべてを真っ直ぐに受け取ってしまうような目は、彼にしか持ちえない魅力だ。目で、視線で、顔で、全身で、見ている夢見る若者特有の繊細さを表現している。見ているこっちが不安になってしまうくらいだ。また、神谷役の波岡一喜もいい。脇役のイメージが強かったが、この作品では派手な衣装に見劣りしないくらいの存在感を放っている。余談だけど、髪型のせいなのか忘れらんねえよの愛すべきボーカル柴田さんに似ててめちゃくちゃ親近感湧いた。相方役の二人、見たことないと思ったら本当のお笑い芸人でとろサーモンというコンビらしい。山下役の人の演技味があるなあ。良い意味でどこにでもいそうな漫才師を演じている。そして今回全く出演シーンないけど、徳永がアパートに戻るシーンで流れる渡辺大知の弾き語りが最高。渡辺大知好きとしてはあの稀有な歌声を活かしてもっと登場してほしい。神戸が生んだ天才ですね。あと染谷将太があまりにも憎たらしくて愛おしい。あんなに少ない出番で存在感を出せるのはなぜなんだ。


徳永と神谷はいたるところで対比されている。コンビ名のカタカナとひらがな。コント衣装でのスーツとカラフルなシャツ。ビールとハイボール。そして私服。幼少期の暮らし。性格。深読みするならば、印象的かつ対照的な目を持つ二人のキャストそのものも対照的だ。それらが神谷と徳永が距離を縮めるシーンの輝かしさを際立たせている。それは、ないものを補い合うように惹かれていく二人の運命性、そしてこれから二人の間に広がっていくであろう距離を表しているかのようだ。あと、1話だけだと思うけれど徳永と山下のシーンは昼が多く、神谷とのシーンは夜が多いのもいい。題材的に神谷との関係に比べて、山下との関係がおざなりになってしまいそうなところを上手く成り立たせている。


また特筆すべきは挿入歌の「空に星が綺麗」と本作のハーモニーだろう。あー売れたい!という徳永の叫びから始まるこの曲に合わせて、徳永と山下の日常が淡々と映し出される。吉祥寺の懐かしい街並み。コインランドリー、銭湯、そして公園。彼らはどんな場所でも彼らは常にネタを口ずさみ練習している。漫才はもはや、彼らの青春だけでなく生活そのものになっているのだ。

懐かしいあの公園にちょっと行ってみようか
最近忘れてること なんか思い出すかも

今まで斉藤和義のこの曲を聴いていたときの感覚を忘れてしまうほど、この曲は徳永と山下の歌になっている。だが、ひとつ気にかかるのはこの曲が過去を回想し、懐かしむ曲だということだ。それはスパークスが過去のものとなる、つまりスパークスが解散してしまうような予感を感じさせられる。でも個人的には解散しないでほしいなあ。まだ一話しか経ってないのにすっかりスパークスに愛着が湧いてしまった。

第1話は神谷が上京して来るということを徳永が知るシーンで終わる。はあ、面白かった。次回予告から察するにスパークス売れるんですね。あと神谷の彼女役が門脇麦なのが嬉しい。第2話と第3話土日でまとめて見ようかなあ。