デミアン・チャゼル「セッション」

これは狂気と執着の物語だ。

ニーマンとフレッチャーが素晴らしい演奏者かと言われたら、決してそうとは言えないだろう。ニーマンは最も全体を見なければいけないパートであるのにも関わらず、自身の技術ばかりを追い求め続ける。フレッチャーは生徒を育て上げるのが役目であるのに、演奏ができない生徒の精神を踏みにじり非情に切り捨てる。そればかりか、自分の復讐の為だけにニーマンが演奏を本番で台無しにするように仕向けるのだ。彼らの音楽への態度は、真摯というよりも"独りよがり"である。

だが"独りよがり"というのは音楽や芸術のひとつの側面だと思う。劇中でも言及されていたように、スポーツなどは厳然とした勝敗の下で優劣が決まるが、音楽や芸術に限ってはそうではない。とてつもなくあやふやな主観的な感想で優劣が決められる。生きている時に不遇の扱いを受けたアーティストが死後評価される話はよくあることだ。そんな中、表現者達はなにを信じていけばいいのか。それは"自己満足"でしかないだろう。自己の理想を追い求め、異様なまでの執着と滲むような努力を芸術に昇華する。そうした芸術の狂気じみた側面を、極端ながらもこの作品は描いている。

最初は夢を持つ普通の若者だったニーマンが、徐々に内向きになっていく。中盤になるにつれて映画館やピザ屋など外の世界を映すシーンはなくなり、ニーマンがドラムを叩くシーン、ひいてはニーマンとフレッチャーとドラムだけの世界がこの映画のほとんどを占めていくのだ。そして彼らの世界はどんどん狭く、深く、歪なものとなっていく。練習を通して、二人の間には師弟愛とは形容し難いような、強烈な憎しみと仲間意識が生まれたように感じる。ニーマンは横暴で自分を認めてくれないフレッチャーを憎み、フレッチャーもまた自分の思い通りの音を出さず、自分より若くて可能性のあるニーマンを憎んでいた。それでもなお彼らを繋げていたのは、理想を追い求め続ける欲求であるだろう。常人には理解できない次元で音楽に執着し続けた彼らの間には、戦友であり唯一の理解者のような関係が芽生えていたのではないか。

そしてこの映画の最大の見せ場であり、最も素晴らしいシーンはやはりドラムセッションのシーンであるだろう。この10分間に感情や理屈を越えた美しさが込められており、今までの内容すべてがこのシーンのために存在していたのだ、という気分にさせられる。

フレッチャーは、自分のパワハラを学校に密告したのがニーマンということに気づき、復讐のために彼が重要な大会で失敗するように仕向ける。その罠に掛かったニーマンは動揺して舞台を去る。そこで彼を待っていたのが彼の父親だ。

身を滅ぼす一番危険な言葉は「上出来だ」だ。

本作において、フレッチャーと対局に位置しているのがニーマンの父親だろう。彼はどんなことがあってもニーマンを受け入れ、抱きしめる。幼少期の頃のニーマンの動画からもわかるように、彼はフレッチャーにとって一番危険な言葉をニーマンにかけ続ける。それはニーマンの才能だけではなく、彼自体を愛しているからだ。そして彼が舞台上で恥をかいたあとでも、父親は「もう帰ろう」と優しく声を掛ける。それを聞いたニーマンは自身の才能と決着をつけることを決意するのだ。

再び舞台に戻ったニーマンはフレッチャーの言葉を遮り、鬼気迫る表情でひたすらドラムを叩き続ける。そのとき彼は戸惑う奏者やフレッチャーさえも巻き込んでひとつの協奏曲を作り上げる。苛立ちを見せていたはずのフレッチャーさえも満足げな笑みを見せるほどの素晴らしい演奏。素晴らしいドラム。そのときニーマンは勝ったのだ。ニーマンの努力、ニーマンのドラムで、あの虐げていた忌々しいフレッチャーに。それはどこまでも二人だけの世界であり、そこに他者が介在しないのが悲しい。

どんな状況にあっても音楽の完成度を追い求めてしまう音楽家の業と、あまりにも閉鎖的で理不尽な音楽というものをこの映画は描いている。テーマも内容も重く暗い作品だが、監督の音楽への溢れんばかりの愛がそれを緩和している。